サンフレッチェ広島の西川周作について

西川周作

西川周作は大分県宇佐市生れのプロサッカー選手でJリーグ・浦和レッドダイヤモンズ所属していて、ゴールキーパーのポジションで活躍しています。中学卒業時まで出身地の宇佐市で過ごし、高校進学時に大分トリニータU-18に入団しました。大分の練習場の拠点のある大分市は宇佐市からは距離があるため、同市内の高校に進学し寮生活を送りしました。

西川周作は高校3年次の2004年にはトップチームに2種登録選手として選手登録されて、リーグ戦1試合でベンチ入りました。ワールドユースから帰国直後の7月12日に対横浜F・マリノス戦で初先発を果たすと、以降1試合を除いて全試合に出場しました。高卒1年目から正GKの座を奪取しました。2010年はサンフレッチェでレギュラーとして自身2年連続となるリーグ戦全試合に出場しました。下田崇の引退により、2011年から再び背番号「1」をつけることになりました。2012年は4年連続となるリーグ戦全試合出場を果たし広島のリーグ優勝に大きく貢献しました。同年自身初のJリーグベストイレブンに選出されました。2013年はリーグ戦33試合に出場して、リーグ最少の29失点とクラブの連覇に大きく貢献しました。天皇杯準決勝のFC東京とのPK戦では両チーム3人蹴り終わり1-3と絶体絶命の中、連続で相手のPKをセーブして、自身もPKを決めて大逆転でチームを決勝へと導いました。

西川周作

2014年は浦和レッズへ完全移籍しました。背番号は2010年以来となる「21」に決まりました。入団後はすぐに正GKの座を確保すると、7月にはJリーグ記録を塗り替える7試合連続無失点を達成して、前年まで不安定だったレッズの守備を立て直す原動力となりました。同月J1の月間MVPに選ばれました。また、GKのJ1年間完封試合数の記録を16に更新しました。同年12月9日、初のJリーグフェアプレー個人賞、3年連続のJリーグベストイレブンに選ばれて、2015年から背番号「1」をつけることになりました。

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サンフレッチェ広島の森脇良太について

 

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森脇良太は広島県福山市幕山台生まれのプロサッカー選手であります。小さい頃は野球少年で憧れの選手は広島東洋カープの山内泰幸でした。友人に誘われ小学2年時にサッカーを始めました。1999年に地元福山市の隣町である尾道市のサンフレッチェびんごジュニアユースへ入団しました。一期上に平石健太がいます。ジュニアユースではFWとしてプレーし島卓視らから指導を受けました。Jリーグの浦和レッドダイヤモンズ所属していました。ポジションはディフェンダーであります。広島県立吉田高等学校卒業した、元日本代表です。

2002年にサンフレッチェ広島ユースへ昇格しました。同期には前田俊介、佐藤昭大、高萩洋次郎、高柳一誠、桑田慎一朗、藤井大輔、大屋翼、冨成慎司らがいます。ユースではサイドバックにコンバートされ森山佳郎や沢田謙太郎らから指導をうけました。ユース監督の森山佳郎はコンバートの理由について「ユースレベルならFWでも十分なレベルだが、プロではDFのほうが見込みがある」と語っています。高校2年時の2003年に右サイドバックとしてレギュラーに定着して、広島ユースはこの年に全国大会で活躍しユース2冠を達成しました。翌2004年も引き続きレギュラーとしてチームに貢献して、ユース3大大会のうち全てで決勝に進出、うち2大会で優勝しました。2008年、広島に復帰しました。駒野が磐田へ移籍したこともあり当初は右アウトサイドの起用を検討されていたが、ミハイロ・ペトロヴィッチは右センターバックに抜擢して、盛田剛平の怪我によりレギュラーに定着して、以降主力として活躍しました。

 

森脇良太

2005年にトップに昇格し正式にプロ契約を結んでしました。同期に、前田、佐藤、高柳、桑田、入船和真、中尾真那、西河翔吾がいます。びんごジュニアユース出身としては初のトップ昇格選手となりました。2006年に出場機会を求めて望月一仁が監督を務める愛媛FCへレンタル移籍されて、第1節からレギュラーとして起用されました。2013年7月、東アジアカップ2013の日本代表に選出されました。

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サンフレッチェ広島ミハエル・ミキッチについて

ミハエル・ミキッチ

 ミハエル・ミキッチは、クロアチア・ザグレブ出身のサッカー選手であります。Jリーグ・サンフレッチェ広島に所属しています。元はクロアチア代表です。今サイドプレイヤーとしての起用が多い、過去には攻撃的ミッドフィルダーとストライカーのポジションで活躍しています。

7歳のとき、NKBistraというクラブでサッカーをプレーし始めます。13歳のとき、NKインケル・ザプレシッチのユースへ加入し、16歳でこのクラブにおいてプロのキャリアをスタートしていました。2年目にクロアチア・ザグレブへ移籍して、19歳までにレギュラーになりました。同年スピードタイプのFWというプレースタイルも似ていたことから、当時はサポーターから「クロアチアのマイケル・オーウェン」と呼ばれ、将来を嘱望されました。

1998年の秋には、18歳にしてクロアチア・ザグレブのメンバーとしてUEFAチャンピオンズリーグに参加して、緒戦となるホームのFCポルト戦で、前半7分にクラブのチャンピオンズリーグ第1号ゴールを決めていました。クロアチア・ザグレブはこのポルト戦に勝利し、さらにアヤックス・アムステルダムに勝利、オリンピアコスに引き分けるなど健闘したが、決勝トーナメントの進出はできなかったです。ミキッチはクロアチア・ザグレブのホームゲーム3試合に全て出場を通じて、ストライカーとしてプレーしました。

しかし翌1999年、クラブが三浦知良らの外国人FWを獲得してから、助っ人外国人の起用優先というクラブの方針により、満足な競争も行われないままレギュラーの座を奪われました。この年もチャンピオンズリーグの出場を通じて、グループステージ6試合中5試合に出場したが、先発は1試合だけでした。最終戦のオリンピック・マルセイユ戦で、2-2のドローに持ち込む同点ゴールを挙げましたが、クロアチア・ザグレブはグループステージ最下位に終わりました。

そんな折、1999年のシーズン途中にクロアチア・ザグレブの監督に就任したオズワルド・アルディレスは、ミキッチのスピードに目をつけ、これがミキッチのサッカー人生における転機となりました。以降、サイドプレーヤーとしてプレーしましたが、2年間でリーグ26試合、公式戦29試合に出場して無得点という結果に終わり、チームも2005-2006シーズンは16位で2部降格となってしまいました。2006年6月に、再びクロアチアに戻ってHNKリエカと契約していました。6月13日のUEFAカップ1回戦・対ACオモニア戦の第1レグで公式戦デビューを飾りましたが、リエカは2戦合計3-4でオモニアに破れ、1回戦で姿を消しました。国内リーグ戦では6月30日の2006-2007シーズン開幕戦で初出場し、勝利に貢献しました。しかしシーズン途中の2007年1月、わずかリーグ14試合に出場したところでリエカを退団し、古巣であるディナモ・ザグレブへ移籍。23試合で4ゴールを挙げる活躍を見せました。

 

YOKOHAMA, JAPAN - DECEMBER 06: Mihael Mikic of  Sanfrecce Hiroshima dribbles the ball during the FIFA Club World Cup match between Sanfrecce Hiroshima and Auckland City at International Stadium Yokohama on December 6, 2012 in Yokohama, Japan.  (Photo by Lintao Zhang/Getty Images)

2009年、Jリーグ・サンフレッチェ広島へ完全移籍してから、すぐに右サイドのレギュラーとして、同シーズンリーグ4位躍進に貢献しました。ミハエル・ミキッチ選手はクラブ遍歴を経て選んだJリーグのレベルを高く評価する一方で、日本人選手の安易な海外志向に疑問を呈していました。広島に加入以降は怪我による離脱はあるものの右サイドのレギュラーを確保し続けており、2012年・2013年には広島のJ1連覇に貢献しました。2014年には在籍が6年目を迎え、1993-1997年の5年間在籍した盧廷潤を越えて、広島の外国籍選手では史上最長在籍の選手となっていました。

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